2011年12月14日

羊の下に我と書いて義

正義の反対は邪義(ジャギ)なんだろうか。結局のところ正しい義なのかどうかは自分にしか決められない。世界を敵にまわしたって自分が正しいと思える義があれば、それは自分にとっては間違いなく正義だろう。他人にとっての正義と同じである必要はない。

祖父は哲学に生きたと聞いているが、自分では哲学を学んだ気も修めた気も無かったらしい。自分にとって正しいと思えるものを見つけた人間は強い。世界を敵にまわしたってびくともしない。世界中が自分の味方になっても、やはり変わらないのだろう。

くらべるべくもないが、俺は救いようのないくらい弱い人間だと言える。世界を敵にまわす覚悟なんて無くて、世間に認められれば舞い上がること間違いない。もう36歳。随分と色んな価値観に振り回されてきた。自分の信じる道が揺らいでいるからだ。

これから残された時間で何ができるだろうか。自分の義を貫くことが、いや、自分の義を見つけることができるだろうか。今まで、人と接することで、人に求められることで、人に期待することで、人の想いを感じることで喜びを感じてきた。ほとんどが人だ。

今の生活には人がいない。顧客がいる。同僚がいる。上司がいる。でも人がいない。そんな生活を6年近くも、よく続けてきたもんだ。自分に無い能力や技術を身につけるための修行だと思ってたから続いたのだろう。この期間で俺は成長しただろうか。

俺には傷付けるべき敵はいない。中国への留学から帰って来てしばらく経った頃から、ただ飢餓と貧困を敵だと考えるようにしてきた。その敵はあまりにも強大で、なかなか闘う術がわからない。勇者の剣も、石板も、クリアするための攻略本もない。

まずは飢餓。飢餓を救うには食べ物が必要で、しかも食べ物を届けなければならない。ここまでは間違ってないはず。誰より安く調達し、最も必要とされる場所まで、一番低いコストで運ぶことを毎日やってきた。次はこれを活かす場所を見つけることなんだが。
posted by yoshiharu at 00:41| Comment(0) | TrackBack(0) | trip | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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